The Alleged 'Nanking Massacre'
Japan's rebuttal to China's forged claims
註釈
●序言
[一]いわゆる〈南京大虐殺〉については様々な表現がこれまで使われてきた。例えば、Nanking Massacre (南京虐殺事件)、the Rape of Nanking (南京暴行事件)、Nanking Atrocities (南京残虐事件)、Nanking lncident (南京事件) などである。官営英字紙「チャイナ・デイリー China Daily」(一九九九年七月九日) などを読むと、近年、中国政府は主として Nanking Massacre を使っていることから本書もそれに倣うこととする。なお中国では〈南京大屠殺〉と称されている。
[二]ジョシェア・A・フォーゲル「アイリス・チャンの描く南京事件の誤認と偏見」『世界』(岩波書店) 一九九九年十一月号二五二−二五七頁。
[三]アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』の背景に中国政府の影があるとの見解については、浜田和幸「『『ザ・レイプ・オブ・南京』中国の陰謀を見た」(『文藝春秋』株式会社文藝春秋、一九九八年九月号)やロス・H・マンロー「中国は『戦争章任ゲーム』で日本を無力化し、アジアの支配を狙っている」(『SAPIO』小学館、一九九九年七月十四日号)などを参照。 なお官営英字紙「チャイナ・デイリー」二〇〇〇年四月二十九日付によると、南京大虐殺があったと証言している元日本兵、東史郎氏が日中戦争時の旧日本軍による人権侵害を国連人権委員会やハーグの国際司法裁判所に提訴する方針を北京で表明し、その活動を、中国の官製組織「中国人権発展基金会」(呂東会長) が全面的に支援していくことを決定したという。
●第一章
[一〕「北清事変に関する最終議定書」第九条 清国政府は千九百一年一月十六日の書簡に添付したる議定書を以て各国が首都海濱間の自由交通を維持せむが為に相互の協議を以て決定すべき各地点を占領するの権利を認めたり。即ち此の各国の占領する地点は黄村、カ房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆臺、唐山、ラン州、昌黎、秦王鳥及び山海関とす。
[二]一九三七年七月十一日、香月清司中将が新たに支那駐屯軍司令官として中国に赴任したことを開かれた昭和天皇は、宇佐美侍従武官長に対し「香月司令官に対し、直接不拡大方針をよく伝え、また支那には外国の権益が錯綜しているので、この点についても十分注意すべきことを言いたかった」と述べられ、香月中将あてに信書を送られた。(児島裏『天皇V』一八九−一九〇頁)
[三]いわゆる「安全区 Safety Zone」についてはほかにも「中立区 Neutral Zone」「難民区 Refugee Zone」という呼び方もあり、みな同じ区域を指すと思われていた。しかし南京攻略戦に参加した犬飼總一郎氏(陸士四十八期)の調査によれば、南京安全区委員会(非政府組織)が十一月二十二日に指定した「中立区」(後に「安全区」「安全地帯」と呼杯)と、中国軍(南京衛戌軍)が十二月一日に指定した「難民区」とは別であった。「難民区」は、安全区委員会が設定した「安全区」のほぼ西半分だったのである(「拉月日記に見る南京安全区の中立違反と赤十字の濫用 上」『偕行』平成十一年九月号、財団法人偕行社)。
つまり安全区委員会は日中両国の当局の許可なく、また治安を維持する警察力もないまま一方的に日中両国から中立の「安全区」を設置した。その「安全区」に徴兵された中国兵たちが身の安全を求めて逃げ込み始めた。兵の逃亡を憂慮した中国軍は日本軍による南京攻略が決定した十二月一日に、難民だけを収容する「難民区」を設定したのである。ところが、当時、そうした実情を知らずに日本側は「安全区」と「難民区」を同じと見て、できる限り安全区委員会の意思を尊重したわけである。なお、安全区委員会は「難民区」外(上海路以東)の「安全区」に十八ヵ所の難民収容所を設けて市民を収容したのみならず、投降を拒否する敗残兵まで匿い、入城した日本軍による掃蕩作戦まで妨害した。その結果、日本軍が直接管理した「難民区」ではほとんど問題が起こらなかったにもかかわらず、安全区委員会が管理した難民収容所では掠奪や強姦事件が相次ぐことになった。[四]実際には、上海の「安全区」に中国の敗残兵が逃げこんだため、日本軍は「安全区」を掃蕩した。ところが、敗残兵たちはすぐ北隣のフランス租界に逃げこみ、逮捕することができなかった。
[五]犬飼總一郎「南京問題について」(『偕行』平成十一年五月号、財団法人偕行社)。
[六]「極東国際軍事裁判速記録第二一〇号」、洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集 第一巻』(青木書店、一九八五年)。東京裁判に弁護側証人として出廷した日高信六郎(南京日本大使館参事官)は宣誓口供書で次のように証言している(反対尋問を受けた)。
「日本軍はこの所謂「安全地帯」を公式に承認しなかったのであります。その理由は、一、この地区の位置が、軍事上から見て南京市内で戦闘が行われた場合、その安全を保障するのに都合が悪く、二、その地区内に中国側の高級武官が幕僚と共に居住しており、三、委員会自体がこの地区内の秩序を確保し、外部から敗残兵その他の好ましからぬ分子が立ち入ることを防止し、もってその「中立性」を保持するだけの実力を持たなかったからであります(これらの条件が充分であった上海の「安全地帯」の場合には、日本軍はこれを認めました)。(中略)上海における安全地帯(所謂「ジャキノ・ゾーン」)(中略)を日本国が認めたのは、一、この地区は純粋の支那町であり、又ジャキノ神父始め委員全部の公正無私な気持や態度が明瞭であったこと。二、委員会は戦闘のある場合、中国非戦闘員を収容保護し、戦闘終了後はしばらくの間引き続き彼等を救護するが、地区内の行政や取締は日本軍の全権力の下にあることを認め、委員会はこれに関与せぬことを始めから明らかにしたこと。三、この地区に隣接した仏租界当局の好意的協力があったため、委員会は戦闘中同地区の「中立性」を維持する実力を持つと認められたこと。四、同地区の位置に顧み、戦闘が近くで行われた場合、その「安全」を尊重することができると認められたこと等の理由に基づくものでありました」[七]『南京戦史』(財団法人偕行社、平成元年)一四八頁。「投降勧告文」は以下の通り。
「日軍百万既に江南を席巻せり。南京城は正に包囲の中に在り。戦局の大勢よりみれば今後の交戦はただ百害あって一利なし。惟ふに江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり。明の孝陵、中山陵など古蹟、名勝蝟集し、宛然東亜文化の精髄の感あり。日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てし之を犯さず、東亜文化に至りては之を保護するの熱意あり。而して貴軍交戦を継続せんとするならば、南京は必ずや戦禍を免れ難し。而して千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん。仍って本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す。即ち南京城を平和裡に開放し、而して左記の処置に出でよ」[八]当時の日本軍は、軍服を脱いだ中国兵のことを「便衣兵」「便衣隊」と呼び、国際法違反だと認識していた。その認識は東京裁判においても採用され、「便衣兵」は「the Chinese plain-clothes soldiers who hid thier wepons and pretended to be civilians (武器を隠し市民に偽装した平服の兵士)」と英訳された。一方、便衣兵を安全区に匿った安全区委員会側は「former soldiers (元兵士)」と表現していた。この「便衣兵」に対する認識の違いが、日本軍と安全区委員会の対立を生むことになった。
●第二章
[一]T・ダーディン「ニューヨーク・タイムズ」一九三七年十二月八日。「防衛地帯内の障害物が中国軍によって焼かれ続けた。昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の中国高官の高級住宅があった。南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。半径十六キロ以内の建物や障害物もまた昨日中国軍に焼かれ続けたからだ。車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、本紙特派員は見た。中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、そこの村は焼け落ちて、燻る廃墟であった。この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、哀れにも僅かばかりの物を持って、ぞろぞろ南京へと歩いていた。そして時々立ち止まっては、かつての我が家を今一度見るため悲しそうに振り返っていた」
[二]洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集 第二巻』(青木書店、一九八五年)一二六頁。なお、南京安全区委員会は南京陥落後の一九三七年十二月十四日から翌年二月十九日まで、六十九通の文書を作成した。宛先は主として日本大使館宛だが、内十通はアメリカ大使館等にあてたものである。この文書に通し番号をつけてまとめたものが、中国国民政府外交顧問の徐淑希編『DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETYZONE/南京安全区档案』(KELLY & WALSH, LIMITED, 一九三九年)である。その日本語訳は『南京大残虐事件資料集 第二巻』に収められている。書名の邦訳を本書では『南京安全区の記録』とする。また、通し番号も同書に従う。
[三]Dr. Lewis S. C. Smythe, War Damage in the Nanking Area, December, 1937 to March, 1938, (Shanghai: Mercury Press, 1938) Table.1. なお『南京大残虐事件資料集 第二巻』に掲載されている同書の邦訳によれば、巻末の表一「調査家族と堆定人口」の「註」には次のように記されている。 「*十二月末から一月末にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録にもとづいて、安全区委員会のメンバーが堆定したところでは、当時の南京の人口は約二十五万人であって、数週間前に彼らがとくに慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。・・・・・・われわれが推定してみたところでは、三月下旬の人口は二十五万ないし二十七万であって、このうち調査員の手のとどかぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は二十二万一千百五十人である。五月三一日に市政公署の5つの地区で登録された住民(下関を含むが、あきらかに域外のその他の地区を含まない)は二十七万七千人であった」(前掲書二五一頁)
[四]邦訳は、加々美光行・姫田光義訳・解説『証言・南京大虐殺』(青木書店、一九八四年)
[五]『証言・南京大虐殺』一四頁。
[六]「極東国際軍事裁判速記録第五八号」、洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集 第一巻』(青木書店、一九八五年)一四二〜一四五頁。「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」は以下の通り。
「一、調査の経過本検察処は敵人罪行調査を命ぜられてより、所用の文書を印刷して市民一般に明らかに告示すると共に、南京市中央調査統計局・軍事委員会・調査統計局・南京警察庁・南京市党部・南京市区憲兵司令部・三民主義青年団南京本部・南京市商会・南京市農会・南京市工会・南京市弁護士公会・南京医師公会・紅卍字会南京分会及び本院等、十四単位に宛て通牒し、《各代表を民国三十四年十一月七日午後二時、本院会議室に参集を請いて第一次会議を開催、会議において南京敵人罪行調査委員会の組織を決議しこれを成立す。又、各代表者はそれぞれ文書を以て関係各方面に移牒し、市政府は各区町村の保甲を督励し、警察庁は各区警察分局を督励し、各々分担責に任じ、その他の各団体は各その性質に応ずる調査の対象を確定して、以て調査の重複を避けることを議決す。この間、敵側の欺瞞妨害激烈にして民心銷沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際においても、冬の蝉のごとく口を噤みて語らざる者、或いは事実を否認する者、或いは自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり》(編者註《 》内は英文の議事録からカットされている)以上のごとき理由によりこの五百余件の調査事実は何れも異常なる困難を経て調査せる者にして、特別の注意を払いて慎重調査を期し、種種探索訪問の方法を講じ、数次にわたり行われたる集団屠殺に関する貴重なる資料を獲得する毎々一々これを審査し、確定せる被殺者既に三十万に達し、このほか尚未だ確証を得ざる者合計二十万を下らざる景況なり。
二、敵人罪行の種類6.その他に関するもの・・・・・・捜索せる資料を総計するに、被殺害者確数 三十四万人焼失又は破壊家屋 四千余戸被姦及び拒姦の後殺害されたる者 二、三十人
三、戦犯及び関係資料2.集団屠殺の証拠被屠殺者たる我同胞 二七九、五八六名新河地域 二、八七三名(廟葬者盛世徴・昌開運証言)平工廠及び南門外花神廟一帯 七、〇〇〇余名(埋葬者丙芳縁・張鴻儒証言)草鞋峡 五七、四一八名(被害者魯甦証言)漢中門 二、〇〇〇余名(被害者伍長徳・陳永清証言)霊谷寺 三、〇〇〇余名(漢奸高冠吾の無主孤魂碑及び碑文により実証)その他、崇善堂及び紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計一五五、三〇〇余」[七]A級戦犯容疑者を起訴するため、一九四五年十二月八日、GHQ内部に設置された。局長は首席検事のJ・B・キーナン。
[八]『証言・南京大虐殺』一九〇頁。
[九]「速記録第五十八号」『南京大残虐事件資料集 第1巻』一四一頁。「南京地方法院検事への魯甦による証言」は以下の通り。 「敵軍入城後、まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間にいたり、生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。
しかる後、機銃を以て悉くこれを掃射し、更に又、銃剣にて乱刺し、最後は石油をかけてこれを焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。・・・・・・当時、私は警察署に勤務しあるも、敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し、上元門大茅洞に隠れ居り、その惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり」[十]「特務機関員が見た陥落後の『南京』」、月刊『明日への選択』(日本政策研究センター発行、平成十年十二月号)二二−二七頁。丸山進氏の証言は昭和史研究所(代表・中村粲獨協大学教授)が作成したビデオに収録されている。
[十一]『南京大残虐事件資料集 第一巻』三八六頁。
[十二]ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィツケルト編、平野卿子訳『南京の真実』(講談社、一九九七年)三一七頁。ラーベはドイツ人で、ジーメンス社の南京支社長。安全区委員会の委員長をつとめた。通称「ラーベ日記」。原文はドイツ語だが、邦訳には誤訳が多く、その問題点を桑原草子・昭和女子大学助教授が「『ラーベの日記』日本語訳を検証すると題して二日にわたり『月刊評論』平成十一年六月二十五日号、七月十五日号に掲載している。
[十三]『南京の真実』二五四頁。
[十四]『南京戦史』三五一頁。南京戦史編集委員会は「南京戦闘詳報」を分析し、十二月四日から十二日夕方までの戦死者を一万二千三百六十六人と推測している。
[十五]別名『戦争とは何か』。Harold J. Tiperler, WHAT WARMEANS: THE JAPANESE TERROR IN CHINA (Lodon: Victor Gollancz Ltd, 1938)。ただし表紙には Not for sale to the public (一般には販売しない)とあり、内部資料扱いであった。なお、Japanese terror in China という書名でニューヨークでも同時期発刊されている。『マンチェスター・ガーディアン』紙中国特派員であったティンバーリー(オーストラリア人)が南京を中心に日本軍の暴行についての資料を集め、発刊したもの。本文は一、南京安全区委員会の委員たち(マギー、ペイツ、フィッチら)の手紙、二、安全区委員会が南京の日本当局に提出した日本軍兵士による「被害届」四百四十件のうちの百三十件、三、安全区委員会が日本当局や英米独大使館へ送った書簡、南京「百人斬り」報道(『ジャパン・アドバタイザー』)の記事など。邦訳は 『南京大残虐事件資料集 第二巻』に収録されている。なお、鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社、一九九九年)によれば、ティンバーリーは一九三七年から、中国国民党中央宣伝部顧問であった。
[十六]「速記録第五九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一六七─一七一頁。
[十七]「速記録第五九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一六六─一六七頁。検察側書証として提出された「一九三八年一月十四日付の、上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」には次のように記されている。
「日本軍当局はその部隊に対して明らかに命令権を失ったごとく、部隊は占領後数週間にわたり、市街を掠奪し、約二万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民(その中には発電所の四十三名の従業員を含む)を残虐な方法によって殺害し(機関銃火による大量殺人は人道的処刑の中に数えられる)、また外国人居住地区に侵入することを梼躇せず・・・・・・」[十八]南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』一〇五頁。一九三八年一月五日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。 「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
[十九]「速記録第四八号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』八九頁。東京裁判に検察側証人として出廷したマギーは次のように証言している。 「私共これだけの外国人は家のバルコニーから外を見まして、実際中国人が一人殺されるのを目撃したのであります。それは中国人が私の家の前を歩いておったのでありますが、それは何れも絹の着物を着ておりました。それを日本の軍人が後ろから誰何したのであります。そうしますとこの中国人は非常に驚きまして、歩行を早めて逃げ去ろうとして、丁度その先の所にありました角の所を曲がろうと致しましたが、そこは丁度竹垣がありまして行き詰まりになったために、逃げることが出来なかったのであります。それを日本の兵隊は追いかけまして、そうして殺したのであります」
[二十]『南京大残虐事件資料集 第二巻』一一四〜一一五頁。『南京安全地帯の記録』の「第三十七号文書」には次のように記されている。 「第百八十五件一月九日朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全区内の山西路にある中央庚款大慶の真東にある池で、日本軍将校一名と日本兵一名が一人の市民服姿の哀れな兵士を処刑するのを目撃した。・・・・・・〔クレーガー、ハッツ〕
(一)われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあまりに非能率的で残虐なやり方で行われていることは確かである」[二十一]「速記録第三五号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二一〜二二頁。東京裁判に検察側証人として出廷したロバート・O・ウィルソン(南京大学病院の副外科医)は次のように証言している。
「○岡本弁護人 入院を拒絶した数はどれ程であるか、概数は御覚えはございますか。○ウィルソン証人 私は南京占領後、昼夜を問わず手術に忙殺されておりまして、手術室にいましたためにどれ位の数が入院を拒絶されたかということは外の人が知っておりましたので、申し上げることは出来ませぬ」[二十二]「速記録第四八号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一〇三頁。東京裁判に検察側証人として出廷したマギーは反対尋問を受けて次のように証言している。
「○ブルックス弁護人 マギー証人、それではただ今の御話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなた御自身いくら位ご覧になりましたか。○マギー証人 私は自分の証言の中ではっきりと申し上げてあると思いますが、唯僅か一人の事件だけは自分で目撃いたしました」[二十三]「第五十四号文書 南京イギリス大使館ブリドー=ブリュン様への手紙」、「南京安全地帯の記録」『南京大残虐事件資料集 第二巻』一四九頁。
[二十四]『南京の真実』三一七頁。
[二十五] 孫元良将軍については犬飼總一郎「南京問題について」(前掲)参照。龍大佐と周大佐についてはラーベが「日記」にこう書いている。
「十二月十二日
夜の八時少し前、龍と周がやってきた。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていった」(『南京の真実』一〇五頁)[二十六] 一九三七年十一月から十二月初旬にかけて安全区の中立性を守るため、ラーベら安全区委員会はたびたび中国軍に対し、安全区から出ていくよう要請した。しかし、唐生智らはその要請を拒否。この事実を知られたら「安全区」は日本軍によって攻撃されることになる。そこで、ラーベらは「安全区には中国軍兵士はいない」との嘘のメモを新開発表用に作成した。その経緯についてラーベは十二月五日の日記にこう記している。
「ペイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きはいったいどう言えばいいのだろう!
『とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる』だと? そんなばかなことがあるか! それでは、中国兵士を入れないという条件を満たせないではないか。そうなったら当面、『安全区』の名をつけることなど考えられない。せいぜい『難民区』だ。委員会のメンバーととことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない・・・。」(『南京の真実』八二頁)[二十七] ゲルハルト・クレープス Gerhard krebs「在華ドイツ軍事顧問団と日中戦争」『軍事史学』第百三十号(蹄正社、一九九七年)二九九─三一八頁。
[二十八]『南京の真実』二四六頁。
[二十九] 東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(下)』(講談社学術文庫、一九八四年)五六〇─五六一頁。
[三十] 洞富雄他編『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社、一九八八年)九九頁。
[三十一] 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社、一九九八年)五一頁。
[三十二] 上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。 「南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている」(『南京戦史』二七三頁)
[三十三] 南京アメリカ大使館通信、エスピー報告、三八年一月二十五日」『南京事件資料集 第一巻』二三八頁。
[三十四]「松井石根大将戦陣日記」『南京戦史資料集』二二頁。
[三十五] 松井大将が一九三七年十二月十八日、慰霊祭において日本軍の「規律違反」を涙ながらに批判し訓示を行ったという説は偕行社の編集委員会が調べた結果、間違いと判明。詳しくは『南京戦史』四〇三─四〇九頁。
[三十六]「速記録第二八五号」『南京大残虐事件資料集 第1巻』二二一頁。
[三十七]『南京戦史』二四九─二五八頁。
[三十八] 便衣兵つまり市民に偽装した兵士の存在に日本軍は大変苦労した。東京裁判に出廷した、当時、第三師団野砲兵第三連隊第一大隊観測班長の大杉浩(陸軍砲兵少尉)は宣誓口供書において次のように証言している(「速記録」第三〇九号)
「作戦の全期間を通じて最も困ったのは便衣隊であります。即ち急追されると武器をかくして常民を装い、我々が心を許すと再び武器をもって抵抗します。武器を捨てたときは常民との区別が全くつけにくいので、遂にわたしたちは必要に応じ全部村民を村の一隅に集結させ監視する方法を採ったこともあります」[三十九] 安全区委員会委員長ラーベは十二月十八日付の南京日本大使館宛「第九号文書」において「問題なのは、安全区を捜索する日本軍将校の精神状況であります。彼らは、当所は『便衣兵』で充満している、と考えているのです。十二月十三日の午後、武器をすてて安全区内へ入ってきた中国兵の存在については、既に再三あなた方へ通知してあることであります。しかし、現在では、地区内には武装を解除した中国兵の集団が一つとして存在しないことは、まちがいなく保障できます」(「南京安全地帯の記録」『南京大残虐事件資料集 第二巻』一三〇頁)と、日本軍の掃蕩作戦を非難している。
ところが、ラーベは二月三日付目記に、上海のアメリカ人が発行している一月二十五日付『大陸報(チャイナ・プレス)』を転載し、安全区に中将を筆頭に約二千名近い将兵が大量の武器を保有したまま潜伏し、ゲリラ活動を展開していたことを間接的に認めている。『大陸報』の要旨は以下の通り。
「中国の将校が隠れていた!
報道によると、高級将校が外国大使館に隠れていた。十二月二十八日に安全区で摘発、高級将校二十三名、初級将校五十四名、下士官、兵一千四百九十八名。南京保安隊長は難民区四区の工作を指導、八八師副師長馬宝山中将と警察局高官もいた。馬将軍は反日感情と動乱を扇動、王新堯保安隊長は部下三名と掠奪強姦、市民に対する脅迫をしていた。また発見された武器は、大砲一基、チェコ製マシンガン二十一丁、ライフル五十丁、手榴弾七千発などである」(The Good man of Nanking 一七二−一七三頁)なお、ラーベ日記の日本語版はこの部分を削除している。[四十]足立純夫『現代戦争法規論』(啓正社、一九八三年)六九−七〇頁。
[四十一]『南京戦史』三二九頁。ただし、こうした「戦闘詳報」では将来の論功行賞を配慮して、鹵獲兵器の数、遺棄死体や捕虜の人数に水増しがなされる場合がしばしばあることに留意する必要がある。
[四十二]『南京戦史』三七五−三七八頁。
[四十三]リチャード・フィン(米アメリカン大学名誉教授)「誇張と曲解から教訓は生まれない−『レイプ・オブ・ナンキン』の読み方」『This is 読売』(読売新聞社)一九九八年八月号。
[四十四]デビッド・ケネディ(スタンフォード大学歴史学部長)「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』(文藝春秋)一九九八年八月号。『アトランティック・マンスリー』一九九八年四月号より転載。
[四十五]「交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒」(陸支密第一九八号、昭和十二年八月五日)は以下の通り。
(『南京戦史資料集』五六三頁)
「四、軍の本件に関する行動の準拠、前述の如しと雖も、帝国が常に(略)戦闘に伴う惨害を極力減殺せんことを顧念しあるものなるが故に、此等の目的に副う如く、前述「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する条約」中、害敵手段の選用等に関し之が規定を努めて尊重すべく(略)」[四十六]『「南京虐殺」の徹底検証』九二頁。
[四十七]「飯沼守日記」『南京戦史資料集』一四二頁。
[四十八]『南京戦史』三二五−三二七頁。
[四十九]「速記録第三〇九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二三九頁。東京裁判に弁護側証人として出廷した第九師団第三十六連隊長の脇吸次郎(陸軍大佐)は宣誓口供書をもって次のように証言している(検察は反対尋問の機会を与えられたが、行わなかった)。 「私の部隊が南京に入った直後、ある主計中尉が公用外出の途中、支那婦人靴が片足遺棄してあるのを発見し、その美麗な型式を友人に見せる積もりで隊に持ち帰ったところ、これを憲兵が探知して奪掠罪の嫌疑で軍法会議に書類を送付したので、その中尉は私の面前で涙を流して自分の無罪を主張し、私もその事実を認めて上司に伝えました。結果は微罪却下となったと記憶します。当時、南京における日本憲兵の取締りは厳重を極め、如何に微細な犯罪も容赦しませんでした」
[五十]「速記録第四九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一〇三頁。東京裁判に検察側証人として出廷したマギーは反対尋問を受けて、次のように証言している。
「○ブルックス弁護人 あなた御自身が、強盗であると思われ、もしくはあなた御自身が強盗されたという事件を、あなたはどのくらい御自身で御経験、或いは見ましたか。○マギー証人 私は実際に先程申しましたように「アイス・ボックス」を盗んでおったのを見ましたことは覚えております」[五十一]「『南京の状況』ワシントン国務長官宛、一九三八年一月八日、アリソン」『南京事件資料集 第一巻』一〇七頁。
[五十二] 郭岐「南京陥落後の悲劇」〔『侵華日軍南京大屠殺史料』より〕、『南京事件資料集 第二巻』二三四−二三五頁。
[五十三]『「南京虐殺」の徹底検証』二七五頁。
[五十四] たとえば、東京裁判に弁護側証人として出廷した上海派遣軍参謀長の飯沼守(陸軍少将)は宣誓口供書において次のように証言している(検察は反対尋問の機会を与えられたが、行わなかった)。(「速記録第三〇九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二五三頁)
「部隊として家具などを持ち出したことを聞いている。これは集団宿舎の設備補充の用途に充てたとのことである。この徴発の際にはそれぞれ損害を補償するか、管理人が逃亡して不在のことが多く、これらの家には代償を支払うべき証明書を貼付しておいた、とのことである。個人として無断持ち出しをしたものも少しあった。又外人の家財を侵したものがあったので、これらはそれぞれ現物を返還し又は補償金を与え解決し、犯罪者は処罰した。決して司令部として不法行為を命令したことは勿論ないし、またこれを容認したこともない」[五十五]「速記録第五九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一六六−一六七頁。
[五十六]「速記録第三六号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』五〇−五一頁。東京裁判に検察側証人として出廷したペイツは強姦事件について次のように証言している。ペイツ自身が強姦現場を目撃していないことを証言している点も興味深い。
「○ペイツ証人 ・・・・・・占領後一箇月して安全区委員会委員長ラーベ氏及びその同僚はドイツ官憲に対して、少なくとも二万人の強姦事件があったことを信じていると報告しました。それより少し前私はずっと内輪に見積もりまして、又安全地帯の委員会の報告のみによりまして、強姦事件は八千と見積もったのであります。・・・・・・私はそういう(強姦事件のような)非常に変人じみた、或いは特に残虐な場合に関してあまり多くの場合を知っていないのであります。自分の個人としての知識はそういうことについては余りないのであります」[五十七] 一九三八年二月九日付「シカゴ・デイリー・ニューズ」によれば、十名以上の日本軍将兵が軍紀素乱を理由に重罰に処せられた(『「南京虐殺」の徹底検証』二六二頁)。
[五十八] 東京裁判において弁護側証人として出廷した塚本浩次(上海派遣軍法務官)は宣誓口供書において次のように証言している(反対尋問は受けた)。
「私は松井司令官の命令を帯し、作戦要務令に従い、軍紀・風紀を破る者に対しては厳重にこれを処断し余すところはなかったと考えております。各部隊としては上海派遣軍法務部があまり厳罰を科し微細な罪をも糾明する態度を非難することもあった程でした」(「速記録第三一号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一九一頁)[五十九]「速記録第五八号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一四二−一四五頁。
[六十]「速記録第三〇九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二三五頁。たとえば、前述した大杉浩少尉は東京裁判において次のように証言している。
「(十三日夕刻)私は城門(中山門)から一キロくらいしか入らなかったが、その間の銀行、官庁には既に憲兵が配置されており、日本軍の立入禁止の札が貼付されていた。(中略)十三日、湯水鎮の本隊に帰り、部隊を誘導して南京の南方土山鎮に集結したが、その時上司の指示により、将兵の外出を一切禁止した。また公用で外出する者も、南京市内西南隅の地区は難民街として指定されているので、一切立ち入ってはならない旨示達した。当時同僚から聞いたところによると、この難民街には敗残兵が武器を持って遁入し、便衣を着て常民を装っているから危険であり、立ち入らせないようにしているのだ、ということであった」[六十一]『南京大残虐事件資料集 第二巻』一八二頁。
[六十二]『南京大残虐事件資料集 第一巻』一五五−一五六頁。
[六十三] 犬飼總一郎「拉貝目記に見る南京安全区の中立違反と赤十字の濫用 上」『借行』平成十一年九月号。
[六十四] 日本兵による強姦事件が全くなかったわけではない。東京裁判において第十軍法務部長の小川関次郎は宣誓口供書で次のように証言している(検察は反対尋問の機会を与えられたが、行わなかった)。
「自分は南京に着くまでの間(一九三七年十一月五日から十二月十四日まで)に約二十件くらいの軍紀及び風紀犯を処罰した。風紀犯の処罰について困難を感じたことは和姦なりや強姦なりや不分明なることであった。その理由は中国婦人のある者は日本兵に対して自ら進んで挑発的態度をとることが珍しくなく、和合した結果を夫または他人に発見せらるると婦人の態度は一変して大袈裟に強姦を主張したからである。しかし自分は強姦と和姦とを問わず起訴せられたものはそれぞれ事実の軽重により法に照らして処罰した」(「速記録第三一〇号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二五六頁)[六十五] WHAT WAR MEANS, p.284. 邦訳は『南京大残虐事件資料集 第二巻』一五八頁。
[六十六] 鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社、一九九九年)三〇六−三一三頁。
[六十七]「向井敏明他判決文本文」『南京事件資料集 第二巻』三六一−三六四頁。
●第三章
[一] 佐藤振壽「上海・南京、見た、撮った」『南京戦史資料集』
[二] 秦郁彦「『南京虐殺』"証拠写真"を鑑定する」『諸君!』一九九八年四月号。なお、この論文の英訳が『JAPAN ECHO』(JAPAN ECHO INC)一九九八年八月号に掲載されている。
[三] 阿羅健一『聞き書 南京事件』(図書出版社、一九八七年)二〇九頁。
[四]『開き書 南京事件』
[五]「速記録第二二号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』一九二頁。
[六]「速記録第一二四号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二〇六頁。
[七]「速記録第三〇九号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二四五頁。
[八]『南京大残虐事件資料集 第一巻』三七八−三八〇肩。なお「埋葬記録」は検察側書証として提出され「法廷証拠三二六」として受理されたが、朗読されなかったので「速記録」には載っていない。
[九]「戦争とは何か」『南京大残虐事件資料集 第二巻』四七頁。
[十] 何應欽『中国現代史料叢書 何上将抗戦期間軍事報告』(台北・文星書店、一九六二年)
[十一] Chiang, Kai-shek, The collected wartime messages of Generalissimo Chinag Kai-shek, 1937-1945 (New York: The John DayCompany, 1946)八三−八八頁。
[十二]『「南京虐殺」の徹底検証』三二六−三三九頁。
[十三] LEAGUE OF NATIONS Official Journal 19th year, No.5-6
[十四] 当時の華字紙の報道については『南京事件資料集 第二巻』が詳しい。
[十五]『新「南京大虐殺」のまぼろし』第十三章。
[十六] 上村伸一『日本外交史 日華事変・下』(鹿島研究所出版会、一九七一年)
●第四章
[一] 瀧川政次郎「揚州十日記と南京大虐殺事件(上)」『祖国と青年』昭和六〇年七月号(日本青年協議会)。
●結 語
[一] ヒレル・レビン『千畝』(清水書院、一九九八年)二六七−二六八頁。
[二] アルフレッド・スムラー『アウシュヴィッツ 186416号日本に死す』(産経新聞社、一九九五年)
[三] Karel Bartosek, Andrzej Paczkowski, Jean-Louis Panne, Jean-Louis Margolin, The Black Book of Communism: Crime, Terrot, Repressiont (Harvard University Press, 1999)
[四]一九九六年十一月二十七日付産経新開によれば、米議会調査局は二十六日までに上下両院議員の資料用に「日中関係・現状と展望そして米国への意味」と題するる報告書を作成した。同報告書は、日中関係の特徴の一つとして中国側の日本軍国主義非難をあげ、中国政府がこの非難を「国内のナショナリズムを強めるとともに、日本政府を守勢に立たせ、経済援助や貿易で中国側にとって、より有利な譲歩を日本側から獲得するための手段として使ってきた」という見方を明記している。
[五] アイリス・チャンが自著『ザ・レイプ・オブ南京』を執筆するきっかけとなったのは、中国系米国人団体「世界抗日戦争史実維護連合会 the Global Alliance for Preserving the History of World WwaII in Asia」が一九九四年にカリフォルニアで開催した「南京大虐殺」五十七周年世界記念会議に参加したことであった。この「連合会」が中心となってチャンの本の拡販運動を繰り広げ、アメリカにおいて日本の戦争犯罪を追及する運動を展開している。ちなみにこの「連合会」は一九九九年十二月、日本の社民党本部などを会場に、「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」を主催した。このフォーラムには、中国政府の研究機関の研究者などが多数参加しており、中国政府と連携して日本の戦争犯罪を告発する活動を繰り広げていることが分かる。
[六] 戦前、アメリカでどのような反日親中宣伝活動が繰り広げられたかについては、長尾龍一著『アメリカ知識人と極東』(東京大学出版会、一九八五年)などが詳しい。ちなみにアメリカの著名な外交官であるジョージ・ケナンはその著『アメリカ外交五〇年』(岩波書店、一九九〇年)の中で、戦前のアメリカ政府の政策が親中反日であったがために戦後、中国大陸と北朝鮮の共産化を許してしまったという痛切な反省を述べている。また、連合軍D・マッカーサーは昭和二十六年(一九五一)五月三日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会において「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」と証言している(小掘桂一郎編『東京裁判日本の弁明』講談社学術文庫)。
Notes
[1] The so-called 'Nanking Massacre' has been expressed in various ways, for example, Nanking Massacre, the Rape of Nanking, Nanking Atrocities, Nanking Incident etc. In recent years, the CCP (the Chinese Community Party) has mainly called it 'Nanking Massacre' in a semi-government English paper, the China daily. Therefore we follow it.
[2] Joshua A. Fogal, "The Controversy over Iris Chang's Recent Book, The Rape of Nanking". Sekai (November 1999), p252-p257.
[3] The very cause of which Iris Chang was motivated to write her book, called The Rape of Nanking was when she attended the Global Memorial Conference of the 57th Anniversary of the "Rape of Nanking" held in California, in 1994, sponsored by the 'Global Alliance for Preserving the History of World War II in Asia'. This Alliance was centered to develop the sales campaign of her book, and to pursue the movement of accusation within the U.S. against the war crimes committed by Japan. This Alliance also held a forum, called 'International Citizen's Forum on War Crimes and Redress' at the Japan Socialist Party's Headquarters in December 1999. To this forum, many researchers sponsored by the CCP attended, and this proved that they were cooperating with the CCP to develop the movement of accusation against the war crimes committed by Japan.
[4] The KMT, which in essence was the government of the Republic of China, represented a loose alliance of militarists, bureaucrats, landlords and commercial interests.
[5] In five major 'Bandit Suppression campaigns,' starting in December 1930 and lasting until 1935, Chiang Kai-Shek attempted to exterminate the Communist forces in China. These campaigns were launched as follows: (1) December 1930; (2) May 1931; (3) June 1931; (4) April 1933; (5) October 1933.
[6] United States. Dept. of States, United States relations with China, with special reference to the period 1944-1949 (Washington. D.C., U.S. Government Office, 1949) read as follows:
In January 1936 the Chinese Communist Party publicly offered the "hand of friendship" to Generalissimo Chiang Kai-Shek if he would take up arms against Japan. On August 26, 1936, the Chinese Communist Party proclaimed to the Kuomintang, "we are prepared to form a strong revolutionary united front with you as was the case during... the great Chinese Revolution of 1925-1927... [that] is the only proper way to save our country today."Coming at a time of growing patriotic resentment against Japanese aggression, the stepped-up demands for a "united front" by the Chinese Communist Party were an effective propaganda weapon for use against the troops to which the National Government had assigned the task of "bandit suppression" in northwest China. By the end of 1936 the army of Chang Hsueh-liang, the former warlord of Manchuria, was in no mood to fight against the Communist forces. In December 1936 the Generalissimo and his staff visited Sian in Shensi Province to map out a sixth "Bandit Suppression" campaign. Rather than carry out Nationalist orders to resume operations against the Communists, Chang Hsueh-liang decide to "arrest" the Generalissimo.[7] The Boxer Protocol read as follows :
Articles 9. The Chinese Government has conceded the right to the Powers in the Protocol annexed to the letter of January 16, 1901, to occupy certain points, to be determined by an agreement between them, for the maintenance of open communication between the capital and the sea. The points occupied by the powers are :Huang-tsun, Lang-fang, Yang-tsun, Tientsin, Chun-liang-cheng, Tang-ku, Lu-tai, Tang-shan, Lan-chou, Chang-li, Chin-wang-tao, Sham-hai-kuan. (How the Far Eastern War was begun edited by Shuhsi Hsu, Shanghai : Kelly & Walsh, Limited, 1938, p.19.)[8] On July 11, 1937, when hearing that Lieutenant General KOHZUKI Kiyoshi was assigned as the Commanding General of the Expeditionary Army in China, the Emperor Showa (Hirohito) said to his Chamberlain USAMI, "directly tell General KOHZUKI the non-expansion policy, and also be aware of the sensitive situations which many foreign interests entangle." And, the Imperial letter was sent to the General. (KOJIMA Jo, The Emperor Showa III, pp.189-190.)
[9] On July 29, 1937, some 3,000 Chinese soldiers proceeded to raid Japanese shops, inns, and private homes. Approximately 250 of the 380 Japanese residents of Tungchow were slaughtered.
[10] Karl Drechsler, "Deutshland-China-Japan 1933-1939", Das Dilemma der deutschen Fernostpolitik (Berlin : Akademie-Verlag, 1964)
[11] The so-called 'Scorched-earth policy' was namely a Chinese traditional tactic by which everything of valuable such as assets and houses in the field would be burnt down so that nothing might be left for enemy.
[12] HIDAKA Shinrokuro, the councilor of the Japanese Embassy to Nanking at that time, testified in his affidavit in the IMTFE as follows :
In other cities than Nanking where the Chinese Army retreated, public functionaries of municipal offices or local personages remained behind the military retreat and coordinated between the incoming Japanese Army and the general public, so that their presence resulted in making smooth relations between the Japanese Army and the general public.When Nanking surrendered the city was completely in a state of anarchy. On 17th, right after the occupation, I witnessed the followings :When the Chinese commander of the Nanking Garrison retreated before Nanking surrendered, all the military and civilian organs disappeared and ofticials absconded from the city all together. Neither a municipal government nor a police organ existed. No responsible person relating to the municipal administration was available. All the stuffs necessary for a daily administration such as documents to record resident registration and real estate were taken away. The police department was dissolved and no policeman was witnessed. Only a couple of private guard men belonging to each Embassy and legation were seen on respective premises. (The Tokyo War Crimes Trial , pp.21457-21458.)[13] To put it more precisely, since Chinese stragglers in Shanghai took refuge in the Safety Zone, the Japanese Army tried to mop up the Safety Zone. However, these stragglers immediately ran into the French concession bordering the Safety Zone, so that the Japanese Army could not arrest them.
[14] HIDAKA Shinrokuro testified in the IMTFE as follows :
The Japanese Army did not officially approve the above-mentioned zone, the so-called 'safety Zone.' The reasons were (1) that the location was thought inconvenient for safekeeping, from a tactical point of view, in case of a battle in the city (2) that high ranking Chinese officers and their staff lived there, (3) that the committee did not have enough power to keep defeated Chinese soldiers and other undesirable persons out of the zone and to maintain its 'neutrality.' (The 'Safety Zone' in Shanghai was considered to differ on these points and was approved by the Japanese Army.) (The Tokyo War Crimes Trial, pp.21459-21460.)The reason for which the plan (the Safety Zone in Shanghai) was approved by Japanese authorities was as follows :
(1) The Area was purely a Chinese town and it was clear that Father Jaquinot and other committee member were all impartial and disinterested.
(2) The committee would take in and protect non-combatant Chinese when there was a battle, and relief and protection would continue for a little while after the battle was over, but the committee would agree not to interfere in the government and supervision of the area, which was to be completely in the hands of the Japanese Army.
(3) As the authorities of French concession adjacent to the area willingly cooperated the committee was thought to have enough actual power to maintain 'neutrality' when there was a battle.
(4) Judging from the location of the area, it was believed possible to maintain 'safety' in the area despite there being a battle near here.
(The Tokyo War Crimes Trial, pp.21461-21463.)[15] The Hague Convention of 1905, Convention Respecting the Laws and Customs of War on Land, Article 26
[16] Languages spoken in each region varied so much that communication among soldiers coming from different regions was difficult for each other.
[17] Shuhsi Hsu (ed.), Documents of the Nanking Safety Zone (Shanghai : Kelly & Walsh, Limited, 1939) pp.14-15.
[18] The IMTFE was established on April 29, 1946 until November 13, 1948. As to the IMTFE, see Antonio Cassese and B. V. A. Roling (Contributor), The Tokyo Trial and Beyond (Polity Press, 1995).
[19] According to the Document No.17 issued by the Safety Zone Committee, dated on December 17, the number of refugees whom the Safety Zone Committee managed to accommodate in eighteen places of refugee camps in the Safety Zone were only about 50,000 Chinese people among 250,000. Another 200,000 were living in the 'new residential district' where Japanese troops managed.